昭和52年5月26日 朝の御理解


御神訓一つ「生きても死にても天と地はわが住家と思えよ。」

この世は苦の世苦の世界、、、 (      いっとき聞き取れない       )そこで、私達が思わせてもらう、言わば安心のおかげを頂くや、安心立命ということを申しますね、意味はよく私は分かりませんけれども、まあ完全なる安心というようなことじゃないでしょうか、それは死生を通して安心ということではないでしょうか。ね。言うならば、あぁ、死生観というようなことを申しますが、ね、そこに、安心立命のおかげを頂いたら、あの世この世を通しての、言うならば、安楽、の、まあ言うならば、あの世で極楽に行けることを確信する生き方が、この世にある時に出来ておる、それが、私は安心立命というのじゃないかとこれは思うのです。ね。ですから、どうでもやはりこの世で喜びの生活、安心の生活、をこれは私共の一生一代の問題として取り組まなければ、ならないのにも関わらず、私共の取り組み方が、目先目先の事だけでは、このいわゆるやはり不安定な日々を過ごさなければならない、その不安定な生き方とか生活で、ならあの世に、もうこの世では仕方がないからあの世ではと、言うなら後生を願うような信心では、とてもあの世でも安定した死後の生活というものは思われません。それはあの世があるやらないやら、魂の世界がどうのこうのと言うけれども、これあは先ず実を言うたら、死んでみなきゃ分からんのです。まああるんだろうというのです。魂の世界があるんだろうと。
今日は久留米の初代の35年ですかね、式年祭。35年の式年祭。(?)大徳を受けられて、それこそ三代金光様から、えぇ、「出すぎもせず引っ込みすぎずもせず、久留米の石橋さんこそ真の人だろう」とこう、言われたと、言われる程しの、やはり人物が素晴らしかったんですね。私共も、えぇ、少年、青年時代を久留米で過ごしましたから、ご信心はよく触れることが出来ませんでしたけれども、その風貌というものを、に触れて、ただ本当に素晴らしい先生だったなとこう思います。素晴らしいだった証拠に、ならあれだけのご比例を筑後の地に輝かされて、そしてたくさんのお弟子さんが出来られて、えぇ、なら久留米に何かという時の出社、みんなが集まって、誰かが大祭の時よりも、先生の霊祭の時、霊祭の方が、その盛大な、えぇ、この度も、お広間だけに入らないという参拝者が、あぁ、溢れることはもう決まってますから、それで付け足されられて、まあ広げられるということ、昨日私共の子供達が3人連れで、若先生、まあ御用にまいりました。やっぱ大変な、まあ大掛かりな、言うなら霊祭が、まあ奉仕させれるわけです。
やはりその、魂の輝きと言うでしょうか、それあならそうしたお祭などに現れてくる、してみるとやはり徳を受けられた、言うならば、人はこの世で(?)だけで徳の世界に住んで幸せだというのじゃなくて、御霊の世界でもやはり、ね、言うなら安定した安心の生活をしておられるだろうという風に思うのです。
今日もここはあの、みんなバスを用意致します、えぇ、11時のお祭ですけれども、おそらく一時間前に行かなければ、座る所が無いだろうと思います。お天気もこんな風ですから、付足しの所ではやっぱりテントが張ってあるけれども、それこそまあ不安定ですから、出来るならお広前の真ん中へ座って、今日の霊祭を拝ましてもらいたいと思うんです。それで、ここを11時ですから、9時半に出発を致します。そすと10時に向こうへ着くでしょうから、ああ、ちょっと小一時間、お祭の前に着かして頂くつもりですから、皆さんもそのつもりでバスに乗り遅れないように、お集まり頂きたい。同時にご参拝が出来ない方は、玉串料を、それからご参拝になられる方は玉串料とお初穂、を(?)久冨先生が朝の内に整理なさるそうですから、募らして頂きたいと思います。
そこで例えばそういう大徳を受けるということと同時に、言うなら、安心立命のおかげと、例えば久留米では信心辛抱ということが言われますが、久留米初代の先生の場合はなるほど初めの間は、やっぱり辛抱し貫かれたでしょう、辛抱ということは辛いことであったには、違いおありになりませんですけれども、その辛抱の苦しみというようなものが無くなって、辛抱する必要がない。例えば黙ってここで治めるということが言われますが、初めの間は心の虫がグウグウ言うごとあるけれども、金光様金光様で黙って治める、黙って治めるということは、こんなに有難いことだということが体験で分かってくる、それで、辛抱も同じこと、初めの間はそれこそ歯を食いしばっての辛抱でもおありになったろうと思いますけれども、四神様が「なあ石橋さん、信心辛抱さえしておけば、物事整わぬことはない」と仰ったという、その一言を芯に、久留米の石橋先生の信心が進められたと言われております。辛抱しておいでられる内に、段々辛抱するということがこんなに有難いことだと分かってこられた時には、もう既に辛抱する事柄が無くなってくる、しまうということなんだ、黙って治めるということでも同じことです。初めの間は黙って治める、ここに一言、これ一口言うとかなきゃと、いうような事でも、それを黙って治めるところの心が寛大になり、豊かになるとね、お徳を受けてまいりますと、ね、黙って治めるということがこんなに素晴らしいことだという、だからどういうような場合であっても、自分の心が安定してくるわけです。ね。
私はその安定した、日常、ね、安定した、言うならば死後の生活、そういう私はおかげを、この世は苦の世と言われるけれども、この世を有難い世にしておかずして、あの世に極楽があるとは思われません、ね。だからこの世で安定したおかげ、この世で安心、喜ばせて頂けれる生活、それがお互いの信心の眼目でなからなければいけんのですけれども、そこを眼目にせずに、ただお取次ぎを頂いてお願いをするおかげを頂くというところになりますと、これはいつまで経っても安定した生活は出来ません、勿論安定した生活ということは、心だけではどうにもできません、全ての上に安定しなければなりません、衣食住は勿論、ね、心の上にもそういうおかげを頂かせて頂くためにです、信心辛抱、言わばここで言われる、なら黙って治めるということの、素晴らしい、黙って治めると、初めの間はきついけれども、それが、黙って治めるということがこんなに有難いことだと分かった時には、もうお徳です。ね。いわゆる寛大な心です。
寛大の寛という字は、ウ冠に草冠、そして見ると書いてあるように、ウ冠というのは宇宙全体のことを意味したものでしょう、ね、この世の中で起きてくる、言うならば自然の働き、それが草冠、一切が受が宇宙、一切が天地の親神様の御働きの中にあることなんだと分からして頂く時に、黙って治められますし、寛大な心でも受けていけれるわけ、そういう寛大な心にならせて頂くと、不思議な事に寛大なおかげが頂かれるから有難いんです、だからいよいよ確信が出来てくるんです。黙って治めるということはこんなに素晴らしいこと、信心辛抱ということはこんなに有難いことだということが、もう体験を積んだ上にも積んで、もう辛抱の必要が無い、黙って治めるということは、辛いことではない。むしろお礼を言えれるような心の状態が開けてくるです、ね。そこに心が安定する。ね。
安定した心には生活の全てが安定してくる程しのおかげが伴うてくるというのですから、ね、生活の安定だけを先に願う、、、「どうぞ商売が繁盛しますように、農作物が良く出来ますように」というようなものではなくてです、私共が安定した生活が出来ることの、願っての信心になる時に、全てが安定したおかげになってくるわけです。ね。
そこでなら、黙って治めるといったような信心が、いよいよ徹底して行じられなきゃならないということです。
それをまあ具体的に、うんなら申しますなら、昨日は25日の研修会で、もう本当に研修、研修ということはもういつの場合でも素晴らしいなと思うんです。もう予想もしない、思いもかけない素晴らしいお話を皆さんから聞きます。昨日も大変、もう銘々がまあおかげを受けましたが、ね、最後に文夫先生が、あの発表しておりました。それにならまあ呉服の商売を致しておりますから、ね、この反物一反売ったらいくら儲かるといったようなことは全然考えない。このお客さんが、なら、喜びなさるということは、どういうことかと、値段が安いとか、(?)おかげで良い柄の反物が手に入ったとか、ね、ですから、それいつも、こりゃ、うんなら、商売をする人が言いますこと、お客様本位というようなことを申しますけれども、それが信心で、いよいよお客様本位であるということを思いますし、願ってお商売をさしてもらうという。ね。もうとにかくお客さんが喜んで下さるということ。ね。
昨日、日田の森山さん達が、夫婦でおかげを頂いたおられました。えぇ森山産業というお商売をご主人がなさって、奥さんがあぁ日田で、ヒタというレストランを開いておられる。もうとにかく長年のお商売をしておられるが、もう信心するようになってからの売り上げが大変に素晴らしい、もう家内なんかは、丁度駅前だそうですから、その、まあレストランの前にこう、おぉ何かあんなのがあるじゃない、陳列の中にこう食べ物が入れてあるですね、あの作ったつが、のじゃろと思うんです。だからお客さんが、そのまあ、その食堂にでも入ろうかと思うてあっちこっちチョロチョロ見て回ってから、こうやってその中を覗いて行きなさるとです、して覗いて行きながら素通りをされる、そん時には奥さんがカウンターに座っとってから、「生き神金光大神様」っち言うて願われるそうです。すとこう向こうに行きよったつが後ろえって来てから、入って頂く、「もうこれはもう素晴らしい体験を家内が頂きよります」というその、まあ商売を信心でなされる、ね、だからみんな、やはりそういうところから信心は入るのは入るのです。商売繁盛、「金光様」と言うたら、そこの素通りして行きよった人が、後戻って、なら食堂に入って下さる。ね。これは、だから、なら商売繁盛の神様と同じことになります。ね。だからそこっ、そこの域から出らなければ、文夫先生が言うように、お客様本位ということは、お客さんが喜んで下さる、だからもう一人ひとりに違うんです、だからそこの心配りというのが、文夫さんの場合は非常に素晴らしいです。ね。だから押し売りも無からなければ、勿論商売ですから、利益はちゃんと算盤に入れてありましょうけども、高いとか安いとかじゃない。ね。問題はお客さんが満足される、喜ばれさえすりゃ良いという生き方、ね。お客さんから喜ばれる、これはもうそのままが、昨日の御理解で申しますと、「この方の行は家業の行」と言われておりますが、家業の行の中には、和賀心が基軸にならなければならないと、39節のその御理解は、サンキューでなからなければならない。どんなにきつい仕事をしておっても、神様と二人だ、同行二人だという頂き方をするなら、疲れはない、とまで昨日はそういう御理解でしたよね。
お商売をさして頂く者が、ね、「このお客さんが喜んで頂くということはどげなことか?」ということを一番に考える。「はぁこの人はもう安さえあれば良いばいな」というたなら、ギリギリ安くして差し上げる、「この人は金のことは言わしゃらん、もう柄が良かりさえすれば」というなら、一生懸命にその柄を見立ててあげる、「もうこれが良かですがの」ちような押し付けようなことはせん。ね。とにかくお客さんが喜んで下さるということを念頭に置いてお商売をする、これなんです家業の行というのは、「はぁこれいくら、これいったらいくら儲かる」しらとしらごつでちからいっちょ売って儲かろうといったようなものではないといこと、金光様の信心さしてもらう者の、例えば商売人であるならば、もうすべからくそうでなかにゃいかんのです。それでは、なら日田の森山さんじゃないけれどもです、「生神金光大神様」を唱えると、表を素通りしておった人まで、また後戻って入って来る、それがもう一回二回じゃない、そういう体験を積んでいかにゃ、「金光様」と言やこんな、言わばあらたかなおかげの頂けれる神様だということ、ね。だからそれがもし、一生それで終わったとするならば、ね、金光様の信心も大したことはない、それでなら安心のおかげが頂けるということはない。入って来られたお客さんに、ならこのお客さんが、どうあったら一番喜びなさるだろうかと、その一人ひとりのお客さんにです、ね、食堂でありますならば、食べ物の、どう味を付けたら、また、あぁ、椅子に座られる、テーブルを拭く、ね、水を差し上げるとか、お茶をあげるとか、どうぞこのお客さんが入って頂いて、昼食なら(?)をして下さるんだから、本当に、あの満足して、美味しかった、そして居心地も良かったというような、風にお客さんが出て下さるような、ためにはどうあったら良いかと心を砕かせて頂くことが、此の方の行は家業の行というのは、そういうことだと思うんです。ね。「いやぁあそこは気分が良かった」「あぁ親切だった、行き届いておった」と、して、その食べ物も美味しかった、「また寄ろうか」ということにもなるから、商売繁盛にも繋がるということになりますでしょう。ね。お客さんが喜ばれるということを、先ず念頭に置いての信心です、それを神様が今度は喜びなさらんはずはない、その喜びが自分の心に反映してくる、それが安定ともなる、なるほどもうこの生き方に定まったということになるのです。私共の生き方、生き調子というものは、もうとにかく人が喜ぶということ、ということを先ずは念頭に置いて、とにかく我さえ良かれば良い、自分が儲かりさえすれば良い、自分方だけが立派になれば良い、ただ自分の家のマイホームだけを感じる考える、といったようなことではなくて、それこそ真剣に隣の人の事が祈られる願われるというその心が有難くなってくるんです。ね。
そういう例えばなら、見易いことなんだけれども、その見易いことを本気で行じさせて頂くところからです、ね、なるほど人間の生き方は、もうこれに極まったと、いうところに安心が生まれる、喜びが開けてくる、安定が生まれてくる、ね、同時に起きて来る一切の問題を寛大の寛の字で頂いていく、黙って治めるで頂いていく、信心辛抱で治めていくということになるのです。ね。
この、こういう生き方になってくる時にです、先の事の不安というものは無くなってくる、もうこの生き方に極まったというのですから、ね、この生き方に極まなければ、安定は生まれてこんです。ね。そんために自分自身が、信心になりきらなければ、もう生き方はこの生き方に極まったと、ね例えば、合楽の皆さんの場合なんか、もうとにかく成り行きを大事にしていく、尊ばせて頂く、全ての事に御の字を付けていく、もうこの生き方に極まったと、極まった時に生まれてくるのは、喜びであり、安心であります。そしてこの喜び、、
死ということは、それは、ある(?)は、怖い事かも、まあ死を思うただけでも悲しゅうなるようなこともあります。けれども魂がこのように生き生きとして輝いてくる、ね、有難くなってくる、安定した心が生まれてくる、ね、だからこの心が、この魂が、そのままあの世にも続いていくのですから、ね、あの世でもやはり安定したいっ、死後の生活がでけるんだと思う思いが強くなりますから、安心した死生観が生まれてくる、安定した死生観が生まれてくる。分かりませんあの世の事は、けれどもこの世でそういう安心した、安定感のある生き方を身に付けておかなければ、ね、この世は苦の世苦の世界だけれども、あの世で助からなければなんてん、そげなことじゃもう遅かっち、教祖金光大神はそこんところを、素晴らしい表現で「生きても死んでも天と地はわが住家と思えよ」と教えておられます。同じだということです。問題は肉体は無くなっても魂はそのまま、ね、残るんだと。ね。不滅の魂であるという、それは実際は、うんなら、私共は分からんのだけれども、不滅の魂と言われるから、やはり不滅であろう、その魂が濁っておったり、ね、喜びが無かったりしたんでは、これはいよいよ不安定。ですから、それこそあの世で、もう本当に、(?)良くない人悪い人やらは、もう火の車が迎えに来ると、それを「はぁ自分のごたる悪か人間な、もう地獄に行くじゃろう、火の車じゃろう」と思うから、ね、死の間際まで、言うならば、ね、もう本当にそういう幻影と言うか、そういうものがうかんでくるじゃないでしょうか、ね。平清盛が亡くなる時には、あのそうだったそうですね、「火の車が、もうそこに来たもうそこに来た」と言うて亡くなったそうです。自分がなら、悪行がです、ね、「とても自分のごたる者がもし、あの仏教的に説く、地獄極楽があるとするならば、もうとても自分がごたるとは極楽には行けんめ」ともう決めとるから、火の車が見えるのです、ね、とにかく人が喜びさえすればと、お客さんが喜んで下さるということをいつも年頭においての生き方、これが神様が喜びなさらんはずがない、ね。そういう家業の行をするから、その家業の行にお徳が頂けないはずがない、その安定の度合い、安心の立命の心というものはいよいよ、ね、いわゆる、確定してくるわけ、ね。自分の心に。そして自分の心の喜び、自分のこの安定した心の状態が、そのままあの世にも繋がっていくことを、確信していけれる生き方。ね。そういう生き方をです、もうこの生き方に極まったという生き方を先ず身に付けてね、この世での言うならば、極楽と言いますかね、のおかげを頂く、それは心だけが安定しておるのじゃない、そういう安定心には、必ず生活の全てが安定してくるおかげになってくる、繋がってくる、ね。もし繋がってこんなら、自分の安定心はほんなもんじゃないということに、言わばなるわけです。ね。いよいよだから精進しなきゃならない、私はそのように思う。もう本当の幸せの生き方は、ここに極まったという生き方をね、自分の本当にですよ、ね、もう本当に強欲な商売とか仕事とかといったようなことは、もう本当に振り捨ててしまわなきゃいけません。野菜一本使わして頂くでも、田んぼの一反を売らせて頂くでも、食堂であるなら一杯の丼物を売るにいたしましても、ね、ただそれが、ただ忙しかった忙しかった、今日は売れた売れなかったのというだけで終始してはいけない。一杯の丼の中に、一本のお野菜の中に、一反の田んぼの中に、ね、どうあればお客さんが喜んで下さるかということを念頭に置き続けて、それが為されていく時に、それがそのまま家業の行ということになりますから、お徳を受ける、安定心が繋がってくる、勿論安定心が頂けれるところに、生活の全てが安定してくるというわけですよね。